セラピストのひとりごと

尊敬する心理療法家

山中康裕、 河合隼雄、 中井久夫、 神田橋條治、 グッゲンビュール=クレイグ、ミルトン・エリクソン。

皆、偉大な臨床家です。私が初心者の頃はこれらの著作本を夢中になって読みあさり、自分自身の臨床のスタイルを探しました。それぞれ学派・理論など立場は違っても、学んだことの共通点は多数あります。来談した方の潜在的な力を信頼すること(無意識への絶対的な信頼)、問題や症状に肯定的な意味をも見出すことなどなど。

なかでも山中康裕先生は、私がもっとも強く影響を受けた臨床家です。山中先生の主催する京都ヘルメス心理療法研究会に参加させていただいたり、私の主催する研究会に講師として来ていただいたり、山中先生とは今現在まで公私ともに交流があります。

山中先生との関わりから得られた様々な学びの中で、もっとも意味深いことと私が感じているのは、相談にいらした方を存在のレベルで尊敬・尊重すること、でしょうか。私の臨床を根底から支えているフィロソフィーと言ってよいと思います。

被災者への心の支援に想うこと
― 同情ではなく尊敬の眼差しで ―

3・11の大震災と、その後の現在に至る(進行中でもある)様々な困難な出来事は、おそらくは被災地の方々と限らず、日本人すべての誰にとっても想像を遙に越える体験であったでしょう。私のオフィスのある岩手県盛岡市は、目に見えるような被害は少なかったのですが、目に見えない衝撃はどの人にも等しく降りそそいだと思いますし、被災地外と呼ばれる地域の方々も同じだったと思います。

「心のケア」という視点から、精神科医・看護師等の医療関係者や、我々臨床心理士など多くの専門家が被災地に支援活動に入っています。 私自身は沿岸の被災地には直接入っておりませんが、自身のオフィスにて被災され家や仕事を失った方、大切なご家族を失われた方との面接を持ったり、避難所に支援に入った臨床心理士へのスーパーヴィジョンをしたりという形で支援活動に取り組んでいます。その経験を通して「こころの支援」の在り様について想うことを書いてみたいと思います。

一般の方々にまず知っていただきたいのは、(既にいろいろなところで言われていることではありますが)、震災後の様々なこころの症状や問題はそれ自体が、異常事態の中での正常反応だ、ということです。人により強弱はあろうかと思いますが、あれほどの未曾有な体験をしたのですから、いつもの自分と違っていてもおかしくはないということです。けっして「心が弱い」からではない、ということはお伝えしたいと思います。更に言うならば、被災した方々に「異常なことではない」ということを伝えることがまずはケアになると言ってよいでしょう。

さて、そのようなことを踏まえたうえで、我々はどんな支援ができるでしょうか。まずは、衣食住の確保や経済的な安定の見通しが立つこと等、現実的なことが解決していくことで専門家の援助はなくとも「こころ」は安定していく、というごく当たり前のことに注目してよいかと思います。また、一般の方々が被災した方々の「こころ」をケアしたいと考えた時、例えば、初期の頃の炊き出し等のボランティア活動は、大変な時期に人として寄り添うという意味で、充分にこころを支えていることになっていたと思います。

「こころの支援」において最も関心がもたれていることは、子どもの心をどう支えていくか、ということだと思います。日々、子どもと関わっているのは家族(や家族代わりの人)であったり、学校の先生方であったりします。このように子どもたちを守る立場にある大人たちが、子どもたちの個々の力を信頼しつつ見守ることが大事でしょう。様々なこころの「問題」や「症状」と見られる現象は、その多くが、「回復」「解決」行動なのだ、と知ることは、「子どもたちを守る大人たち」を支える意味を持つでしょう。例えば「津波ごっこ」は子どもたちのイメージレベルでの表現であり、収まりきれないほどの強い体験を子どもなりに整理、解消しようとする力の表れと見ることが出来ます。

そのことは、大人でも子どもでも同じと考えてよいでしょう。より良く生きようとするエネルギーが強いからこそ、「苦しみ」も強く感じられます。「心の傷つき」を体験することは、弱いからではなく生きようとする強い意志があるからこそです。

「心」のことに限っていえば、被災した方々を「傷ついた弱者」と見るのではなく、過酷な状況を日々生き抜いている方々として、尊敬の念を抱く、という援助する側の姿勢が強く求められていると考えています。

もちろんそれは「がんばれ」と応援することではありません。被災した人ががんばっておられる時にはその「がんばり」に敬意を表し、絶望し動けていないように見える時には、逃げている、と見るのではなく心身を休めてエネルギーを蓄えているのだ、と見る。

「気を張る」ことで切り抜ける人・時期もあれば、「泣く」ことで感情を出し整理をつけていく人・時期もあります。大切なことは回復のプロセスは一人一人違うということです。

一般の方々が出来る支援は、自分が出来る範囲の「現実的」な援助をしつつ、被災した方々に関心を持ち続けて、人として寄り添っていくことでしょう。特に避難所から、仮設住宅に生活の場が移行している現在、孤独感、生きていく意味の喪失をよりリアルに感じる人が増えていくこれからが、「心の支援」の本番かも知れません。

さて、こころの専門家である我々臨床心理士、カウンセラーにはどのような姿勢が求められているでしょうか。基本的には前述した、「人として寄り添う」という一点で一般のボランティアの方も専門家も何ら変わりはないと考えています。少なくとも「こころへの支援」は症状や問題を解消しに行くというようなことではまったくなく、「ともに居る、添う」ために行く、としか言いようがないように思います。安易に「悲しみ」を取り除かない、「意欲がない」ことを大事にする、「苦しみの体験」から生まれる恵みを信じる、そういう姿勢。

そうなると、専門家である臨床心理士は、自分自身の感じる「無力感」から逃げずに向き合うことが必要です。様々な臨床心理学的スキル(描画・リラクゼーション・動作法etc.)は実は援助者自身をも支えているのだ、という自覚なしにその技法を使うことがあれば、被災者の本当のニーズを見失うことにもなるでしょう。

更に、臨床心理士(カウンセラー)に求められているのは、「言葉を失う」ような未曾有の体験をイメージのレベルで共有しつつ(これを安全に行うには心の専門家としてのトレーニングが必要です)、同時にその人がもつ「生きようとする力」の存在を信じ、被災したその方に伝え返すこと、でしょうか。そして、その方々が、新たな「生きていく意味」を発見していくお手伝いをすること、これが臨床心理士の専門性であると考えています。